筑波大の現役&OBOGが、摂理の学生生活、普段は何をしているのか?素の自分を書いています。

menu

摂理の筑波大学生-キリスト教福音宣教会

「一番」になりたかった。「特別」になりたかった。


こんばんは、NORIです。

最近していることは、もっぱらお祈りすること。といっても、集中して何時間、というよりかは気づいたときに神様に話しかけるようにしてお祈りしています。

ここ最近のスランプ。

天国に対する無関心。

なんでそうなのか、ずっと神様に話していました。

 

おとといでしょうか、いつものように神様に話していました。

なんで関心がないのでしょう?

なんで御言葉を聞いて頑張ることが、嫌になったんでしょう?

 

 

いつもそうでした。いつからだったかは、わからないですが。

頑張っても頑張っても、どこか心が満たされない。

目的を始めに決めたけれども、その目的に対して、

「それをして何になる?」という思いが払しょくできない。

「達成したところで、なんになる?」

どうしてだろう?

そこまで考えて、あることが浮かびました。

「頑張っても、報われなかった」

 

 

自分の中では、自分なりに、めいっぱい頑張ってやってきました。

部活。習い事。勉強。スポーツ。

顧問の先生にひどいこと言われようとも

周りの友達がさぼって遊んでいた時も

腐らず、一人黙々と、やってきたものがありました。

それでも。現実は悲惨なもので。

自分よりもさらにできる人がいる。

努力ではどうしても、埋められない差。

テストや、試合や発表会で、その現実を毎度のごとく突きつけられ

普段の生活でも些細なことで、その差を思い知らされてきました。

 

 

私は、世間からみると、有名な進学校に通っていました。

周りからは「賢いね」「立派だね」と言われました。

でも、私自身は、そんなことを全く、思っていませんでした。学校の中には、自分よりも頭がさえる、勉強ができる人がたくさんいたからです。

私は、彼らとの差を見せつけられながら過ごしました。

だから、周りの「賢い」「立派」という言葉が、自分にとってものすごく、不快な言葉でした。

 

 

摂理に導かれた後も、そんなことをたくさん経験しました。

先に断っておきますが、摂理の体制がそうだというわけでは決してありません。

ただ、何か大きな賞をもらう人を見るたびに

教会の皆の前で、表彰される人を見るたびに

私の心がとても憂鬱になりました。

悲しくなりました。

ねたみました。

そう感じる自分に対して、嫌気がさしました。

 

 

こんなに頑張っているのに。

誰かにやれと言われるのでもなく、自分からちゃんとやっているのに。

自分なりに考えて、できることやっているのに。

なんで自分じゃないの?

そういう思いがいつも、根底にありました。

頑張っても相手にしてもらえないなら

頑張っても、一番になれないなら

頑張っても、しゃーないやん。

 

 

そこまで考えていた時、あることに気づきました。

この度の信仰のスランプの、本当の原因。

それは

「摂理の中で誰よりも、神様に、一番愛されたい」

「誰よりも、特別扱いしてもらいたい」という思いから来ていたことに。

 

目に見えないものでは、本当に自分が愛されているのかわからなくて不安だから

目に見えるカタチのものがほしかった

誰よりも特別だという証拠がほしかった

 

ということに気づいたのでした。

 

ここから、どう進むべきか。

この問題に、どう向き合うか。

 

この先、どうなるかはわかりませんが、一つ言えることは

これを乗り越えた時、新しい自分に生まれ変われる

ということ。

 

 

では今日はこの辺で。

 

 

 

 


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
当サイトの著作権について

関連記事

カレンダー

2018年2月
« 1月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728